近田春夫の考えるヒット584は「Dream Fighter」。
Perfumeの”僕ら”は普遍性がある!この曲にJ-POPの可能性を見た
♪最高を求めて 終わりのない旅をするのは/きっと僕らが 生きている証拠だから
この、Perfumeの新曲「Dream Fighter」の歌い出しを聴いたとき、なんとすがすがしくも、どこか悲しみをたたえていて、また、力強い歌詞なのだろうかと思った。
2008年は彼女たちの年だったといってもいい。2007年の暮れと今とでは、まず一般の認識の度合いというものが全然違う。確実に一年の間で色々な面に於いて、Perfumeはスケールを大きくしたことだろう。
そうした背景がオーバーラップされて、ちょっとジーンときてしまった。こんなにエフェクトのかかった人工的な声だというのに、リアリティがあるのだ。彼女たちの実感が伝わってくるのである。
それにしても”僕ら”というコトバが、不思議な気分で心に突き刺さったのは何故だったのか。歌っていたのが女の子だったからなのだろうか。いや、そうではないな。逆だ。彼女たちが歌ったにもかかわらず、まったく”僕ら”に違和感がなかった。自然に聴こえた。それがとても新鮮だったのだ。(こういうところが中田ヤスタカのセンスの味わいどころなのかも・・・)。
日本語というのは文章を書くにも歌詞を作るにも、人称代名詞がいつも厄介で、男でもない、女でもない、もう少し抽象的に、人間ということをカジュアルに伝えたいときなど、これが英語のようにシンプルに行けたらどんなに楽かと思うことがある。
この”僕ら”にはそういった意味での、どこか性別を超えた普遍性のようなものがあるのだ。しかしそれは決して”我々”や”私たち”ではあらわし得ないものでもある(試しに、歌詞の”僕ら”を”我々”などに置き換えてみてほしい。途端に何かが失われていくのが分かるだろう)。先の話と矛盾するようだが、こうした微妙なニュアンスの伝わってくるとき、この国の歌は面白い、と思ってしまう。
こんなにみずみずしい日本語が、とてもモダンな音楽の中に自然に溶け込んでいるのだ。この曲を聴いていると、いわゆるJポップというものも、決して袋小路なんかではない、まだまだ無限の可能性を秘めているんだな、と勇気づけられたりするのである。
「Love The World」以降、中田ヤスタカの言語感覚を高く買っている近田氏。
DFを聴くと、息苦しいまでの自己追求と前進姿勢に全てを持っていかれそうになるが、あえて”僕ら”という一言の選び方が生み出す普遍性について語っている。
ここでいう”僕ら”の普遍性は、ヤスタカが作詞を担当し始めたエレクトロ3部作、「コンピューター・シティー」や「エレクトロ・ワールド」でのとても印象的な「僕」にも通じるのではないだろうか。
参考:
考えるヒット「Love The World」
http://d.hatena.ne.jp/aerodynamik/20080825/p1
考えるヒット「ポリリズム」
http://d.hatena.ne.jp/aerodynamik/20071116/p1
Perfume×近田春夫対談@TV Bros.
http://d.hatena.ne.jp/aerodynamik/20071219/p1