パンクが世間に現れたとき、大人は「あんな稚拙なものは音楽ですらない」と言った。
テクノポップが世間に現れたとき、大人は「あんな血の通っていないものは音楽ですらない」と言った。
クラブミュージックとしてのテクノが世間に現れたとき、大人は「繰り返しだけでメロディーもない、これは音楽ですらない」と言った。
小学生が書いたかのように稚拙な文章。
ただ泣かせる為だけに考えうるだけの不幸を並べ立てた不感症のような展開。
どの本もセックスとレイプと病死が判で押したように繰り返される構造。
そうなのだ。これは紛れもなく文学のニューウェーヴなのだ。
30を過ぎた俺がそれを認めたくないだけなのだ。
ああ、なんてこったい。
「ケータイ小説(笑)」などと言っている時点で、自分が既に現代の新たな文化を理解できないという紛れもない事実を惨めに世間に晒すことになろうとは。
進化を拒んだ俺の脳は硬直し、穏やかにただ死を待つだけの存在となってしまった。
ブログに、mixiに、自慢げに「ケータイ小説(笑)」って書いてる奴は全員一括りにして「旧世代」だ。「旧人類」だ。「老害」だ。
「ケータイ小説」の読者層であるあいつらはニュータイプなんだよ。心を通わせられるんだよ。
俺達が「あんなひどい代物w」と決め付けたものから、あいつらは普遍的な「リアル」を感じ取れる感性を持っているんだよ。
俺達にはもう理解できない、想像することすらできない世界に、あいつらは進んだんだ。